「天の園」見聞録その弐“コンチワ石”

 

 現地に入り浸り、自転車で唐子中を走りながら私は一つの物を探しつづけていた。


 コンチワ石である。


 馬橋家(馬場家)の墓場にある井戸のふたにされていた平べったい石、、、

 残っているとは思わないが井戸くらいはあるのではないかと何度か覗いてみた。

 (ちゃんとした取材許可を貰ってないため墓場には入らず遠目から)
 

 だがそれらしい物は見たことは見たのだが何分、許可の取り方がわからない

 どこに許可を取ればいいのかわからないという愚能すぎる私は確認する術を見出せなかった。

 そんな私に神はいろいろな出会いを用意していてくれたみたいだ。

 どうも私はすこぶる不審者っぽい行動をしていたらしく行く所々で「何を調べてるんだい?」と地元の方々に声をかけられた。

 身振り手振りで必死に説明(どうも私は口下手らしい)してわかってもらうとなんと地元の方々から貴重な証言を頂いたりすることができたのである。

 中には私の行動を察してか、唐突に話し掛けてくれた方もいた。
 

 そんな方々の一人に80代のおじいさんがいた。なんと生前の打木村冶と話をしたことがあるという。

 私はその方の証言によりコンチワ石は実在した!と思った。

 第四部の話だがコンチワ石が渡り石にされかかって結局されなかったという話があったが実際にはコンチワ石は渡り石になったらしいのだ。

 そしてその方がいうにはその渡り石には穴がいくつもあけられていたという話なのだ。
 ここで私には疑問が浮かんだ。

 どうして打木村冶はコンチワ石が渡り石にされかかったという小説に書いたのだろうか。

 もしおじいさんの言うとおりならばその渡り石の石はコンチワ石、又はコンチワ石のモデルになったものだと私は考えている。

 もしかしたら村冶が唐子から離れてからコンチワ石が渡り石にされてしまったのか、とも考えたがどう考えてもそれはそれで矛盾を感じる。

 村冶は後に「天の園」を書くために唐子に何度も訪れている。
 

 そしてもしコンチワ石が土橋にされたと知った時、彼が取れた行動としてコンチワ石の後の姿を書かないことだってできたはずだ。

 小説のとおり、小学生時代に起こった事件だったとしてもまた然り。
 

 だが彼はコンチワ石が渡り石にされかかり、結局渡り石にはされなかった。という風に小説には書いている。

 そしてこれからもこの石はここにあるんだと言わんばかりのことを大人(母かつらや伯父)に言わせている。これはどういうことだろう。

 私が考えるに村冶が本当の「物語」を書いた理由は大人から子供へ受け継がれていく心を描くためだったのではないか。そう思えてならない。
 

 だが今、打木村冶が伝えようとしたこの物語はもっとも現実離れしている。


2001/9/6脱稿 2001/9/8発行

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